(2003/11/17プロパン・ブタンニュース)

尹 宣海
(ユン・ソネ=通訳・翻訳者、国際交流研究所研究員)
珈琲―それは新しい文化

 子供の頃から父親の仕事の関係もあって、いつも家には人の出入りが多かった。子供ながら、静かなところでのんびり暮らしたいと願う事もしばしばあった。それが日本に来ることで、静かな一人暮らしが実現したが、正直、親元を離れ暮らす事は容易ではなかった。
 日本に縁故も友達もいなかった私は、部屋探しからすべてを一人で解決しなければならず、諦めたり妥協してしまったりしたことも多かったが、それでもこだわり続けたことがある。それは家の近くに映画館と喫茶店があることだった。今は埼玉に住んでいるが、家から見える喫茶店と少し歩いたところに映画館もある。幸せの限りである。
 最近は朝目覚めると簡単に洗面をすませたあと、衣服を着替え歩いて一分足らずのところにあるドトールに顔を出す。まだ頭もぼんやりしていて起きてから一言も話していないことに気付きながら、コーヒーを一口すするとやがて周りが見え始め、私の朝が始まる。
 このドトールに来るといつも思う事がある。コーヒーを売り物にしているのに、ショップに入るとなぜか日本を感じてしまうことだ。お店自体が決して派手な格好をしているわけでもなく、むしろ街の中に馴染んでしまって目立たないにもかかわらずドトールの存在は、今や日本の街の一部になっているようにも思える。
 考えてみると、韓国にはドトールのようなお店がない。街の中に馴染んで、黄色と茶色の看板を遠くから見てもすぐ「それ」だと分かるような地元の代表的なコーヒーショップがない。もちろん喫茶店はあるが、人が集まるところに集中していたり、流行のものに目をとらわれコーヒー本来の味にこだわっているお店も少ない。しかも、コーヒーは西洋の文化だから拒否するとの主張までもが出てきた。「我が国の文化を大事にしましょう」「コーヒーを飲むなら、緑茶を飲みましょう」と。悲しい。それをいうなら、緑茶も元々中国のものだから飲んではいけないのでは? 唐辛子も高麗時代に唐から入ってきたからキムチも食べてはいけないのでは?
 文化というのは、創ろうとして創れるものでもなく、拒否しようとしても必要であれば自然に受け入れられ時間とともに馴染んでいくものだと思う。例えそれが、本来自国に無いものであっても、新しい文化として再創造させてしまう包容力が恋しいこの頃である。