葉山に溶け込みよろず相談受け付け
福原プロパン社長
神奈川県LPガス協会青年部会長
福原慎治氏


ウエーブ・風 話題と肖像画/ナリケンがゆく <171 >

 12日の日曜、寒冷前線が南下して北国は雪、東京地方も曇りや雨の予報だったが、神奈川県葉山町に出かけた。葉山町の福原プロパンの福原慎治さんを2時に訪ねる約束だった。葉山御用邸の近くと見当をつけ、所要時間に余裕をもって家を出た。昼過ぎには逗子インターを降りた。横浜・横須賀道路ができて葉山の海岸道路を通らなくなって久しい。鐙(あぶ)摺(ずり)から森戸海岸、眞名瀬漁港、三ヶ岡の海岸通りをドライブした。逗子市の町中では春の陽光が降り注いで道ゆく人々は春を満喫しているかに見えたが、相模湾に打ち寄せる波は、源実朝の「大海の磯もとヾろによする波われてくだけて裂けて散るかも」を思い出し口ずさんだ。
 御用邸を過ぎて国道を行くとほどなく左手に下山田の階段がある。階段を上れば神明神社の境内である。神社の社務所の裏に福原プロパンはあった。玄関に液化石油ガス販売事業者之証、昭和56年4月15日許可、代表者福原勝之等が明記された標札がある。石油業法に基づく石油製品販売業者之証も並んで掲げてあった。これは灯油販売のためのものである。代表者・福原勝之は、3年前に亡くなった慎治さんのお父さんである。約束の時刻まで暫く時間があるので神明神社の社務所の石段に腰を下ろし、逗子の町で買ってきた鯵の押し寿司の折りをひろげた。天気予報通り寒冷前線が通過しているのであろう。突風が吹いて寿司折りの蓋が風にとばされた。消防団の寄り合いがあると言っていたから長引いているのだろうとコートの襟を立てて待った。
葉山という町は
 慎治さんは、お客さんに急に呼び出されてと言って約束の2時にさして遅れずに帰って来た。そして葉山町は、御用邸があって、ほのぼのとした静かな町だ。ここ下山口の海岸は2月まで若布を天日に干して乾燥させる。それは風物詩だと言う。また、葉山町には電車の駅がない。道を歩いていても顔見知りばかりだから世間話も弾む。地元の消防団の仕事や葉山の歳時記にもある8月の神明祭りでは大へん忙しい。事務所の壁に架けてあるお神(み)輿(こし)の写真を指してここにいるのが親父だと誇らしげである。このように村社会に溶け込んだ福原プロパンは「よろず相談受け付けどころ」である。町内の大工、左官、畳屋、水道、電気屋さん等に連絡して処理する。
日影茶屋のマリー・クリスチーヌさんを喜ばした
 マリーさんは月に3、4回、葉山の家に帰って来る。夜遅く帰ったときガス切れだったが、福原プロパンに電話したら直ぐ来てくれて大助かりしたと県協会のゲストスピーカーで話してくれ面目を施した。それは親父が存命中で、親父が自分でとどけたのである。(日影茶屋は葉山鐙摺にある割烹の老舗、マリーさんは、そこのお嫁さんで、タレント)。
義理、人情が厚く、なかなか進まない共同化
 福原プロパンは葉山町から秋谷海岸にかけてお客がある。5、6年来、10立方m5,500~5,600円くらいで推移してきたが、最近は5,000円を切る値が現れた。このところ輸入価額の高騰で立方m当たり30円値上げしたが。鎌倉逗葉支部には7人の青年部員がいて仕入れを安くするために共同購入の話もある。また、バルク供給の初めごろに共同でバルク・ローリーを運用する案も検討されたが、実現していない。現在付き合っている問屋との関係をこわしたくないという気持ちがあるのも否めない。町の商店とスーパーとの関係だ。町の商店にできて、スーパーにはできないサービスがある。とくにLPガスには安全管理の問題がある。いくら安くとも配管の図面も持たないでは済まされない。
県協会青年部会長・福原慎治さん
 昨年6月、県協青年部会長に選任された。8代目の青年部会長である。歴代大きなお店の若旦那的な方が青年部会長だったが、福原さんの前任者・7代目部会長の坂口裕一さん(横浜市神奈川区の坂口商店)は、お父さんと2人でプロパン店を経営していた。そしてお父さんが亡くなって1人で奮闘していた。福原さんは自分と似たような境遇だと言う。福原さんは平成11年から県協の青年部会に参加して鎌倉逗葉支部の青年部長をつとめた。県協青年部の主な活動は、廃棄メーターの回収によって得た収益から年1回、LPガスを使用している福祉施設に物品を贈って社会貢献事業を行うことである。今年度の回収メーターは約5万台で、小田原市の知的障害児通園施設「富士学園」に調理済み料理を温かく保つウォーマー、ほかにテント、掃除機、机、椅子、教材等100万円相当を贈呈した。17年度の廃棄メーターは5万台だったが、超音波メーターも出てこの分野に大きな波が来ようとしている。この社会貢献事業を着実に進めて行くと言う。
福原さんの成功を念じて
 福原さんは平成5年、法政大学社会学部を卒業して同9年まで横浜のプレップスクールという塾の先生をした。文系だから国語、英語、社会、歴史等を教えた。プレップスクールは、香港、シンガポール、バンコク、ニューヨーク、シドニー等にも教室を開き、福原さんはバンコク校開設に携り現地で活躍した。そして同9年にお父さんの福原プロパンに入ってお父さんの事業を継いだのである。福原さんの今の仕事ぶりから学校の国際的展開などを想像しにくい。相模湾の景色のように晴れた日もあれば、荒れた日もあろう。全国に福原さんのようなプロパン屋さんが大勢いる。福原さんの成功を念じながら帰って来た。

プロパン・ブタンニュース/石油化学新聞社(C)