競争力、収益力あるグループへ
丸紅ガスエナジー社長
玉置 肇氏
ウエーブ・風 話題と肖像画/ナリケンがゆく <156>

IHクッキングヒーターの心配
 東京・神田駿河台の丸紅ガスエナジー本社に玉置肇社長を訪ねた。駿河台は神田界隈で最も高台にある。通された10階の応接間からの眺望はこの上なく素晴らしい。眼下にはニコライ堂が見える。目を左に移せば、秋葉原電気街に神田明神、湯島聖堂に聖橋と続いて、東京医科歯科大学、明治大学と高層ビルが建ち並ぶ。実に東京らしさが充満した町並みである。
 景色を肴に、オール電化問題の話になった。東京ではデベロッパーが競争しあって、オール電化高層マンションが流行っている。全国5,500万所帯、仮に1千万所帯でもいい、1kwのIHクッキングヒーターを一斉に使うなら一千万kwの電力が要るから、とても今の供給構造では間に合わない。オール電化はどこかで落ち着くに違いないと玉置社長は言う。
アジア・中東・北米での勤務
 丸紅は昭和35年に「ベニープロパン」「ベニーブタン」のブランドでLPガスの国内販売を始めた。15年後の50年に玉置社長は慶応義塾大学商学部を卒業し、丸紅に入社した。この年、千葉市美浜に新日本液化ガス千葉基地(貯蔵能力8万t)が完成し、丸紅はLPG本格輸入を開始した。玉置社長は以来30年、エネルギー一筋の53歳、働き盛りである。
 この間、インドネシア・イラン・米国に勤務し、原油や石油製品、LPGの3国間貿易、米国で天然ガスのパイプライン販売に携わった。
 インドネシアでは国営石油会社プルタミナのLPGを使って東南アジア・中国南部向け輸出を手がけた。特に丸紅の対中LPG戦略は平成10年7月、広東省の深圳に中国と合弁事業で冷凍輸入基地(8万㌧)を完成させて、大きく花開いた。
 今年4月、丸紅はLPG業務を統合し、LPG部(真鍋儀十部長)を設けた。目的は①国内販売②中国輸入販売③国際貿易――3事業をユニット化し、各事業を拡大することにある。国内販売事業の中核には丸紅ガスエナジーが座り、丸紅が対中ビジネスに一層力を入れる体制となった。丸紅が扱う中国でのLPG輸入量は年間約130万t、全中国輸入量の20%に上る。
 イランには平成4から8年まで勤務した。イラン産LPG輸入は昭和40年代後半に出光興産の協力で、ペルシャ湾最奥のカーグ島から日商岩井・伊藤忠商事・丸紅が共同で取り組み、知多の出光興産愛知製油所のタンクを借りて始めた。イラン駐在時にカーグ島を訪れ、革命と戦争により被害を受けた元のカーグ・ケミカル・カンパニーを視察した。そこにはセミ冷凍プラントが今も動き、細々ながら地中海・インドへLPGを輸出している姿を見て、感慨深かったと振り返る。
LPG業界、毎年1千億円の調達コスト負担増
 玉置社長は、メジャーがこの10年で下流部門を売却して上流を開発することに専念してきた。バレル当たり20ドルの原油は今や6、70ドルに達している。儲けたのはメジャーだけかもしれない。東南アジア、中国の人たちが生活力を高めるならエネルギー消費も伸びるから、当面は高値安定であろう。しかし、3~5年先には天然ガス随伴のLPGが生産され、量も伸び続けていくと見られるので、需給バランスにおいて価格は落ち着いていくだろうと予想する。
 ただ、現実にはサウジCPを基準にすれば、プロパンの調達コストが03年は年平均300ドル、04年のそれは350ドル、05年1月から10月までは400ドルと毎年50ドルずつ高くなり、LPG産業全体で年間1千億円ずつの負担増になった。元売に抱える力はなく、2万7,000業者のどこかで吸収する必要があると言う。
総合LPG事業者を目指す
 対談の終わりに玉置社長は、LPG輸入だけで事業を維持することには限界がある。上流で競争力を付け、消費者に近いところでは八つの事業会社を核に収益力のあるグループを目指したい。それは上流・中流・下流のバランスのとれた「総合LPG事業会社」を目指すことであり、LPG産業の成長のためにも、わが社が仕掛けて変化を創っていきたいと抱負を語った。
ベニープロパン45年
 これを聴きながら、亡き白土光夫さんを思い浮かべた。白土さんも慶応大の出で、和光通商時代にLPGと出会い、丸紅に転じてベニープロパン販売網を築くなど、半生をLPGに捧げた人である。丸紅エネルギー専務の時に病床に伏し、昭和60年7月29日、55歳で逝った。葬儀にはお人柄を慕って多くの業界有志が参列し、見送った。玉置社長は「私は白土門下生です」と帰り際におっしゃった。
 筆者は頼もしき白土門下生によって、丸紅らしいLPGビジネスが蘇ったと感じた。そしてベニープロパン45年を思い起こしながら、玉置社長がお好きと聞いた司馬遼太郎『街道をゆく』の〈神田界隈〉の巻にならい、ニコライ坂を靖国通りに下り、神田小川町~神田淡路町~神田須田町と20分ほど歩いて、御玉ケ池跡の神田岩本町のわが社に帰った。 

プロパン・ブタンニュース/石油化学新聞社(C)