ガス大好き、保安大好き人間を
小埜寺商店社長
宮城県LPガス保安センター協同組合理事長
小埜寺 宏氏


ウエーブ・風 話題と肖像画/ナリケンがゆく <172 >

 宮城県岩出山町の小埜寺商店の小埜寺宏社長は、昭和29年生まれ、52歳の若手経営者である。自分が生まれる前に母は燃料商を始めた。物ごころつく頃には母は自分を負ぶって自転車で木炭を運んでいた。父は岩出山町役場に勤める公務員だった。母は公務員の薄給では子供に十分な教育ができないと燃料商をはじめたのである。そして昭和30年代の終わりごろにはLPガスを扱った。宮城県にLPガス事業者は千軒からあるが、女性起業家は母、てる子が初めてで、81歳で健在である。父は役場に多年勤務して最後は助役だった。
 小埜寺社長は3人兄弟の末子である。お兄さんは東北学院大学経済学部を卒業して母の事業を継いでいたが、独立して水道事業に力を入れ伸びている。宏社長は昭和53年、東北学院大学法学部を卒業して家業に就いた。町の発展に水と火で尽くしている。因みにお姉さんは古川市でブティックを経営。母の血を引いて一等商才があるのは姉ではなかろうかと宏社長は言う。また、小埜寺商店にはお兄さんの息子2人が入って後継者が育っている。
 宏社長が家業を継いで3年目の昭和53年に米国視察旅行をして大いに啓発された。ちょうどそのころ、岩出山町に大規模な土地区画整理組合の活動が始まり、社会資本の充実に人々の関心が高まった。このような社会環境の変化に宏社長は果敢に挑戦して昭和57年、地元LPガス事業者と協同して簡ガス会社・岩出山ガス会社を創設、社長に就いた。そして昨年5月には宮城県LPガス保安センター協同組合理事長に就任した。いま、保安の在り方をめぐって第三者保安機関が脚光を浴びている。オール電化攻勢も看過できない。
 (注)岩出山は天正19年、米沢藩主だった伊達政宗が岩手沢城(のち岩出山城=岩出山町)に入部した。正宗は居城を仙台に移すまで13年間、岩出山城にいた。
ロス郊外の住宅展示場見学
 昭和56年、田尻の住設機器会社の誘いでアメリカ視察旅行をした。ロス郊外の住宅展示場で母屋から離れた処でお湯を製造して150ミリのパイプで湯を送る設備を見てこんなのが日本にあったならガスの大増販ができる。日本には壁かけの湯沸かししか無かった。その1年後にガスのボイラーが出はじめた。これによって目指す方向がはっきりして給湯に注力した。
簡ガス・岩出山ガス創立
 昭和57年、岩出山町に土地区画整理組合ができて住民の間に社会資本整備の一環として簡易ガスを望む機運が広がった。この分野に大手資本の参入の噂もあった。地元のLPガス業者はこのままで推移するならば自分たちの将来がないと危機感を募らした。今のオール電化攻勢と同じである。地元のLPガス業者11店舗が資本を出し合って資本金2,870万円の簡ガス会社岩出山ガスを設立した。宏社長は自分よりもっと大きな人もいたが、お前がやれと言われて引き受けた。時に28歳だった。簡ガスの資格は借り免だったが、必死に勉強して2年で自社で資格を得た。かくて許可地点数248、調定数150を実現したのである。
見直されてきた宮城県保安センター
 宮城県保安センターの受託件数は、33万戸である。ピークは15年前の45万戸である。この数字が物語るものは、センターの内部問題として収益性が落ちた。人件費を減らしても宮城県の広さを考慮すれば限度がある。県の北も南も同一基準で同一保安レベルで点検せねばならない。30人の点検員が1人1日15件を目標に働いている。調査点検料は4年で1回、1,900円である。1年で500円ということになる。
 自主保安体制、規制緩和、そしてS型メーターを付ければ保安は満足するの考えかたが蔓延した。かくて保安点検タームが2年から4年になった。その結果はどうだったか。保安がおろそかになった。教科書には販売と保安は一緒と書いてあるが、その通りには行かなかったのである。そこで広域販売事業者などが第三者保安機関に点検を任せるというセンターへの回帰現象が生じている。彼らは1年に500円の点検料は安いと踏んだのである。
点検でもコラボを
 LPガスも都市ガスも、そして簡ガスも同じガス体エネルギーなのだから保安センターの調査員がその資格を取得していれば都市ガスや簡ガスの点検作業をしていいはずだ。仙台ガス局は開栓、閉栓を外注している。その場合、LPガス法とガス事業法が大きな壁となっている。ここはコラボで行きたいものであると、保安センター協同組合理事長の顔になった。
後継者の育成
 宏社長のお話は、段々熱を帯びて、利益があればするではなく、規模の大小でもない。ガスの魅力に引かれた青年、保安大好き人間を育てねばならない、と結んだ。

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