(2002/03/04 プロパン・ブタンニュース)
埼玉県LPガス協会会長(サイサン会長)川本宜彦氏
「汝、容器を愛せよ」
 埼玉県LPガス協会長・川本宜彦さんに登場ねがい、業界に新しい「風」を吹き靡かしてもらいたいと、さいたま市(旧、大宮市)の本社を訪ねた。JR大宮駅の西口を出れば、近代高層ビルが建ち並び、駅も街も活気に満ちている。
 創業者である先代社長・
川本二郎氏が、昭和二十年に、それまで勤務した日本酸素を退職して埼玉県川越市に埼玉酸素販売所を創設したが、早くも昭和二十四年には経済の中心は大宮市であると確信、現在のサイサン本社ビルの地を営業の本拠に定めた。
 創業者・川本二郎にこの判断がなかったならばサイサンの今日の繁栄はなかったと思う。先代は昭和二十七、八年ころにLPガスに着目し、昭和三十年一月には県下の七社で「埼玉県プロパンガス事業協議会」を設立、初代会長に就任した。
 筆者はそのころからのお付き合いで、昭和三十二年にアジア石油の横浜精油所にアルキレーション装置が完成してLPGが量産されたとき、当時アジア石油の製油部長だった山本大輔氏にサイサンを推奨してアジア石油の第一号LPガス特約店になった。
 それが今日のJOMOにまでつながったのである。二者(石油会社の直の特約店、その下販売店をサブといった)になったと、あの時の先代の得意満面な顔が目に浮かぶ。
 先代との思い出にふけりながら駅からサイサン本社ビルへの歩道橋を歩んだ。 
三代目社長へのバトンタッチ 先代・川本二郎と書いたが、正確には先々代である。二代目社長の宜彦氏は昭和四十八年に先代から社長を継ぎ、二十一世紀幕開けの昨年、長男の武彦氏に社長をバトンタッチして会長になった。
 家は三代にしてなるという。自分は二代目として創業者の父とは考え方が違う。一般に創業者は死ぬまで仕事をと考えているようだ。自分は職場から墓場はいやだ。三代目へのバトンゾーンは三年と思っている。三年の間になだらかに権力を移行する。そのうちに自分の羽で飛べるようになるだろう。自分自身は二十世紀の人だと思う。二十一世紀に活躍する者はいま三十歳代でなければと言う。
 三年でバトンタッチが終わり、自分の余生は一年の半分はキャンピングカーを現住所としたい。書物も好きで手当たり次第に買い込んでいるからこれらをみな読み切るには相当に長生きしなければならない。
 とは言っても創業社長と二代目社長は、その話しぶりや趣向などがよく似ている。初代はそれ行け、それ行けと旗を振り、息子の宜彦社長は機関車の釜にせっせと石炭をくべてスピードを上げた時代だった。今は列車の各車両にモーターがあって超スピードで走る新幹線時代だ。そのくらい環境の変化が生じているのである。
業界団体の統合は急務、強いシングルボイスに
 昭和六十三年に宜彦社長は、埼玉協会長になって十一年余務めたが、平成十年九月、埼玉成恵会病院のガス事故の道義的、社会的責任をとって協会長を辞任した。昨年六月に請われて再登板した。
 自分の引責辞任後に協会長を引き受けてくれた土橋藤男さんは、いわゆる「無断撤去」に関して省令改正にこぎつけるなどご苦労をねがい、成果を上げた。そういう人々から埼玉の楯(たて)になってくれ、LPガス消費者軒数日本一を誇る埼玉県をLPガスの砦(とりで)にしてくれとの要請もだし難く協会長に就任した。協会長を引き受けた以上、首都圏市場にいま現れている悪質な顧客切り替えなどの不公正な行為を駆逐せねばならない。
 そしてもう一つ大切なことは業界流通団体の統合である。業界には十指にあまる諸々の団体がある。それぞれが小さな小丘に登ってお山の大将を気取っていてはエネルギー間の大競争に打ち勝つことはできない。それぞれの思いを業界全体の太く、強いシングルボイスにしなければならない。
原籍はLPガス 
 サイサン上尾LPG基地の玄関に五百リットルの医療用の小型酸素容器を抱えた女神像が立っている。そしてそこには創業者・川本二郎直筆の「汝 容器を愛せよ」が墨書されている。「容器の数が業界を制す」。高圧ガスを業とする者の格言である。
 今やLPガスは可搬容器からバルク貯槽へと、その供給形態が進化してはいるが、「汝、容器を愛せよ」の言葉がもつ意味を今こそしっかりとかみしめねばなるまい。
 「汝、容器を愛せよ」は、「汝、LPガスを愛せよ」に他ならない。別の言い方をすれば、わが原籍はLPガスだと強調しているのである。恐らくそれは宜彦会長の三代目社長へのバトンタッチのエッセンスであろう。

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