LPガス業界の軌跡をたどる20世紀物語
(株式会社石油化学新聞社発行 プロパン・ブタンニュース2000年夏季特大号収録)

  残り少ない二十世紀のカウントダウンをしながら、 LPガス業界のこの百年を振り返ってみましょうか。 プロパン・ブタンニュースが取材した、 元売、 卸、 販売の流通各段階と、 スタンド、 プラント、 供給・燃焼機器、 GHP、 各分野が歩んだ道。 これを一読すれば、 流れがわかります。 「そーそー、 あったよこんなこと」 ってな感じでノスタルジーにひたるのもよし、 「歴史は繰り返すっていうからな」 と次世紀の参考にするのもよし。 さあ、 二十世紀総まくり、 始めます。


20世紀物語−輸入・元売編
(株式会社石油化学新聞社発行 プロパン・ブタンニュース2000年夏季特大号収録)

輸入・需要開拓・保安確保の先導役担う
LPガス供給安全保障体制を推進

 日本のLPガス産業は昭和三十年代に入って、 まず国民の家庭生活に燃料革命をもたらすという形で本格的にスタートし、 その後自動車用燃料、 産業用燃料としても急速に普及してきた。 この四十五年余の歴史の積み重ねを経て、 現在ではLPガス需要は年間二千万トン近い規模に達しつつあり、 わが国の一次エネルギーの五%を占めるまでの地歩を築いてきた。
 こうした発展過程や業界エポックの中で、 常に先導者・リーダーの役割を担い続けてきたのは生産・輸入から販売までLPガス流通のトップにある輸入・元売事業者だが、 その歴史は供給の安全保障 (LPガスセキュリティ)、 需要開拓、 保安確保の三点に集約される。
 昭和二十七年、 太平洋岸の製油所がLPガスの生産を開始したころ、 LPガスは家庭用燃料として普及し始めた。 三十四年になると他の製油所のLPガス生産も加わった。 また、 製油所だけでなく、 石油化学工場からのLPガス生産も開始された。 しかし、 急激な需要の伸長に対して、 製油所・石化工場からのオフガスを主体とする生産・供給体制では、 遠からず供給不足を招くことは必至で、 LPガス輸入プロジェクトが動き始めた。
 この初期に、 LPガス輸入を推進したのはゼネラル瓦斯 (当時)、 日本石油ガス、 出光興産など石油系企業のほかに、 LPガス輸入販売を目的に設立されたブリヂストン液化ガス (現・三井石油)、 都市ガス増熱原料確保用の東京ガスの各社であった。
 早くも、 三十五年五月にはゼネラル瓦斯、 日本石油ガス、 出光興産がLPガス輸入計画を通産省に説明した。 これに対して、 同年九月の外資審議会ではまずゼネ瓦斯のタンカー建造で外資借款を許可したところから、 ゼネ瓦斯の輸入計画が一足先に進捗した。 すでに国内産のLPガスで流通機構をつくり、 原油との混載によるLPガス冷凍タンカーで輸入計画を進めたゼネ瓦斯 (LPガス積載量四千七百トン) と日石ガス (同五千二百トン) に対して、 LPガス専用の大型低温タンカーで新しく独自の計画を推進したのがブリヂストン液化ガスであった。
 わが国のLPガスの本格的な輸入開始は昭和三十六年から翌三十七年にかけて、 三隻のLPガスオーシャンタンカーであった。
 LPガス低温タンカーによる輸入第一船の栄誉を担ったのは、 ゼネ瓦斯の豪鷲丸。 三十六年十二月にサウジアラビアのラスタヌラから四十二日間の航海を終えて、 川崎の輸入基地に荷揚げした。 折しも、 この年末は未曽有のガス不足に見舞われた時期で、 業界にとってはまさに大きなクリスマスプレゼントとなった。 続いて三十七年三月にはブリヂストン液化のブリヂストン丸が世界初のLPガス専用低温タンカー (積載量一万六千トン) として、 クウェートからLPガスを満載して川崎の輸入基地に到着。 さらに第三船として、 日石ガスの原油混載タンカーが同年五月に川崎に帰港した。
 これら三船によってLPガス大量輸入時代の幕開けとなり、 LPガス市場はさらに拡大し、 需要は第一ピーク期を迎えるとともに、 大量消費時代を創出する端著となった。
 もっとも、 こうした輸入時代はいとも簡単に開幕したわけではなかった。 輸入のパイオニアたちの苦労の連続があった。 輸入の歴史は、 輸入基地タンク建設の歴史と表裏一体でもあり、 輸入船と輸入基地にまつわる技術開発の奥は深い。
 その後、 二度にわたる石油危機や湾岸戦争などを教訓に、 昭和五十六年七月の石油備蓄法の一部改正によって、 LPガス輸入業者に輸入量に応じて備蓄義務が課せられることになった。 五十六年度十日分をスタートとして毎年度五日分ずつ積み増して、 昭和六十四年度に五十日分を達成し、 今日に至っている。 一方、 国家備蓄体制も整備されたほか、 輸入ソースの多源化、 産ガス国と輸入・消費国との対話推進による供給安定化などLPガスセキュリティ体制は順次強化されてきた。
 時代は相前後するが、 需要の増大と大量消費時代の開花は石油会社などにLPガスを企業の一分野として正式に位置づける動きを加速するとともに、 総合エネルギーの一翼を担うLPガス産業としての地位を確立する必要が生じてきた。 かくて昭和三十八年六月に、 石油精製二十一社、 石油化学八社、 石油鉱山二社、 LPガス輸入四社の計三十五社によって初の生産者・輸入業者団体であるLPガス生産輸入懇話会が設立され、 これは後の日本LPガス協会の活動に引き継がれていった。
 三十六年の輸入開始と符合するように流通面にも大企業の進出が目立った。 利用器具の分野にも新しい波が押し寄せた。 大手家電メーカーによるガス器具生産への参入であり、 LPガス家庭用消費器具の生産力は一気に高まった。 ガス器具専用メーカーに加えて、 家電メーカーの積極的進出はLPガスの大衆化に一層拍車をかけた。 他方、 ブタンガスの有効販売が緊急な課題としてクローズアップされ、 輸入・元売事業者は卸売・スタンド・小売業と一体となって自動車用や工業用利用開発などを切り開いてきた。
 また、 川上に位置する輸入・元売としての立場から、 競合エネルギーとの競争力発揮の視点から自らの合理化対策も含めてLPガス流通合理化の一段の前進へ支援策や誘導策を展開してきた。
 さらに、 製造・販売・貯蔵・移動・消費までのLPガス安全対策の確保では、  1情報伝達ルートの確立 (保安キャンペーン、 教育・研修)  2消費者保安推進のための卸売業・小売業などグループ啓蒙・指導 (系列指導、 地域保安体制の構築、 教育・研修・訓練)  3消費者への保安サービスと保安啓蒙の支援 4安全機器の普及促進 (安全器具・保安システム、 集中監視システムの研究・開発、 普及活動の支援) の四点を最大課題として推進し、 事故ゼロの実現を目指している。

20世紀物語−卸売編
(株式会社石油化学新聞社発行 プロパン・ブタンニュース2000年夏季特大号収録)

一貫して流通効率化めざす
ガス不足解消から需要開拓まで、流通4団体の統合再編も提唱

 LPガス販売事業が業界として形を成し始めたのは、 五五年の全国プロパンガス協会から。 全協は当初、 元売・卸売の全国組織にしようとの構想もあったが、 地方協会の存立を基礎とすることで一致。 日本LPガス連合会の前身として旗揚げした。 卸売組織は遅れること八年、 六三年にLPガス元売中央協議会として発足した。
 業界の萌芽期は需要急伸にともなうガス不足との戦いだった。 五九年四月、 ゼネラル・三井グループのLPガス輸入販売会社がゼネラル瓦斯設立し、 翌六〇年一月にはわが国初のLPガス沿岸タンカーが完成した。 しかし、 ガス不足は深刻化。 六一年三月には全協がメーカー各社から意見を聴取。 同月全協内に卸売組織としての 「元売部会」 が発足した。
 六三年には、 七月に全国の元売 (卸売) 五十社が初の全国元売懇談会を開催し、 LPガス生産輸入懇話会に対応する 「LPガス元売中央協議会」 の設立を決めた。 全国LPガス卸売協会の前身となる組織で、 会員資格はメーカーと直結している一次特約店とこれに準じるもの。 十月の設立総会には全国九十六元売と五団体代表が参加し、 安西浩会長を選出した。
 元売中央協議会は六四年四月、 ガス不足を重視し、 全会員に警告を発するとともに、 供給確保を第一義にした販売を要請。 一方で同五月、 石油化学八社にLPガスの増産を要請。さらに、十月には小売業界にガス不足の実態をPRするパンフを配布し、適正価格の維持、 過当競争の排除を呼びかけた。
 しかし、 ガス不足は依然解消されず、 通産省は六五年二月、 LPガス逼迫対策として計画出荷の強化と便乗値上げの厳禁を業界に要請。 元売中央協議会は三月、 LPガス不足について都知事、 通産大臣、 政府機関に善処を求めた。 中東紛争にともなうLPガス輸入量の減少で、 二年後の六七年六月にも、 全国LPガス元売協議会 (元売中央協議会から六六年に改組) として、 計画出荷と価格是正への協力申し入れるなど、 草創期はガス不足に悩まされた。
 ガス不足は他方で価格問題を生んだ。 七三年十二月に始まる第一次石油危機では、 LPガス不足に対処し過不足調整に努力。 七四年一月には通産省の要請を受け、 日協、 日連、 全スタ協とともに四団体の緊急対策本部からなる 「LPガス緊急対策連絡協議会」 を設置した。 また、 七八年九月には通産省の差益還元要請に対し、 LPガス事業者の自主的・積極的対処を指導。 七九年一月の第二次石油危機でも、 九月に差益還元の再要請を行った。
 八九年三月、 石油備蓄法に基づくLPガス五十日備蓄 (民間備蓄) が達成され、 需給安定が進んだ。 九八年十二月には国家備蓄会社 「日本LPガス備蓄株式会社」 が発足、 二〇一〇年までの百五十万トン備蓄に向け動きだしている。
 だが、 一方では九四年、 サウジFOBのCP (通告価格) 制への移行に伴って価格変動が激しくなり、 九七年一月のサウジCPは過去最高のトン三三〇ドルに上昇した。販売業界では都市ガス、電力との競争激化で小売価格の値上げ改定が困難化しつつあることから、 卸売価格もしだいに値上げ改定が難しくなりつつある。この流れは、 流通機能の合理化・効率化 (規模拡大と近代化) と合わせ、 直販による流通短絡化を加速している。
 流通対策では六九年六月、 充填タンクの実態調査を行い、 充填所新設の必要性を示唆したのが初の全国的な動き。 同年からLPガスの品質競争 (純P=い号) に対し、 「ろ号」 供給を小売事業者、 消費者にPR。 七〇年四月、 ガスメーターリース制度の確立で、 流通合理化の基盤整備が進んだ。 七二年二月には近代化促進法に基づく充填・販売の近代化基本計画と実施計画が告示され、 LPガス業界の構造改革がスタート。 卸売では主として回転式充填設備の導入が進んだ。 七八年八月には改正近促法の特定業種に指定された。
 七二年十二月、 メーター制法制化に関する改正政省令が公布。 七七年二月には、 各地で本格化し始めた配送センターへの規制を最小限にとどめ、 届出制、 有資格者制を提言。 さらに同四月、 高圧ガス保安審議会が保安確保の条件付きでバルク供給を承認。 その後、 八二年十一月に日団協がLPガスバルク基準 (供給設備・取扱基準) を設定、 バルク供給がスタートした。 流通改革の起爆剤、 新バルク供給はさらに遅れること十五年、 九七年四月の改正LPガス法施行で誕生した。
 その一方で需要は伸びが鈍化、 全卸協は八〇年十一月に初の需要開発セミナーを開催。 翌八一年十二月にも需要開発研修見学会を開始するなど、 販売業界に開拓努力を呼びかけ始めたものの、 電気、 都市ガスに比べ動きは鈍い。 ただ、 八〇年代後半から普及が始まったGHPは業界にガス空調という新需要を創造した。
 卸売業界組織は、 六三年十月の 「LPガス元売中央協議会」 設立に始まる。 六六年五月に 「全国LPガス元売協議会」 に改組、 七九年十一月 「社団法人全国LPガス卸売協会」 を設立した。 九三年五月には九〇年二月の日連 「二十一世紀ビジョン」、 同五月の高保審 「九〇年代の流通保安ビジョン」 などを受け、 卸売の進路を示した 「信頼されるLPガス産業の構築に向けて」 を発表した。
 このビジョンは卸売の基本機能を配送、 ストック、 品ぞろえ、 金融、 情報、 販売店指導と捉え、 課題として 1低コスト化とサービス向上 2安全性の確保 3消費者選択の多様性の追求 4合理的な料金体系の確立 5労務対策 6販売体制の強化 7情報化の推進 8需要開発の推進を提示した。 九九年五月には定時総会後に松村秀雄会長が会見し、 流通四団体の統合再編を提唱。 目下、 折衝が進展中。
 現在の卸売事業者は約千四百五十社で、 充填所数は二千七百四十カ所。 規制合理化にともなう競合エネルギーや同業者間競争の激化で、 統廃合と流通短絡化が急速に進展中だ。

20世紀物語−小売編
(株式会社石油化学新聞社発行 プロパン・ブタンニュース2000年夏季特大号収録)

中央・地方の組織化実現
続く事故撲滅運動の展開、業界自主ルール作成に腐心

 昭和二十七年四月、 太平洋岸の製油所の石油処理制限が撤廃され、 七月には石油類の統制もなくなった。 終戦後の打撃から復興しつつあったこの年だが、 十月から二カ月に及んだ炭労ストで都市ガスが一斉に止まった。 だが、 炭労ストはLPガスにとって思わぬ援軍となった。 それまで伸び悩んでいたLPガスやメタンガスが、 にわかに注目をあびたのである。
 当時は印刷の活字の鋳造には都市ガスが使用されていたが、 これが止まったため、 新聞社では朝日とジャパン・タイムスがプロパンを、 読売と毎日がメタンガスを使った。 こうしてLPガスは新エネルギーとして脚光を浴び、 一方では石炭が凋落の道をたどるというエネルギー革命の象徴的な事件となった。
 産業界で脚光をあびたLPガスが家庭用燃料としての地位を獲得するためには、 新しい器具が必要だった。 昭和二十八年には国産による様々な器具が開発された。 翌年、 LPガスの需要は前年に比べ二倍に膨れ上がった。 同時に安全に対する配慮の重要さにも気付かされていた。 三十年十一月には全国プロパンガス協会が設立された。 福井、 神奈川、 新潟などの県が先行し全国で次々とプロパンガス協会がつくられていった。
 そして、 全国的な組織が熱望されるようになったのだが−−。 八月二十六日の全協創立総会は紛糾して継続審議となった。 これは、 差し当たり元売・卸売事業者を正会員としてスタートしようという東京の考え方に、 大阪・京都・九州の各協会と日本酸素が都道府県協会を主体とすべきであると主張して対立したためである。
 しかし、 プロパン事故が各地で目立ち、 高圧ガス取締法の改正も目前に迫っていることから、 全国団体の必要が痛感された。 そこで、 関東・近畿地区の代表は精力的に協議を重ね、 地方協会を存立の基礎とする点で東西業界の意思統一がなり、 全国プロパンガス協会 (日連の前身) が誕生することになった。 三十二年にはLPガス需要家数は八十万世帯を超え、 都市ガス世帯の三分の一に達した。
 これら旺盛な消費に応え精製各社も技術陣を動員して、 供給量のアップに取り組んだのであった。
 昭和六十一年一月二十八日、 行政・業界・消費者の十六人で構成されたLPガス安全器具普及懇談会が初会合を持った。 官民あげた安全機器普及促進運動が実質的にスタートしたわけだ。 狙いは安全機器の普及促進で事故件数を五年で五分の一に、 十年で十分の一に減らすということ。 日連では十年の設置計画を前倒しし七年間で完全達成を図ることとし、 運動展開に入った。
 この結果、 スタート時点の事故件数五百十五件から平成九年には六十八件という驚嘆すべき減少をみせた。 昭和六十二年九月には安全機器の目玉ともいえるマイコンが発売。 平成六年には十年検満タイプ、 仕様の統一などを目的に開発されたS型メーターも登場した。 販売業界は今年を保安高度化目標達成の最終年とする総合保安対策に沿って 「CO中毒事故防止対策及び埋設管事故防止対策等」 を最重点事業として推進している段階。
 業界草創期は高圧ガス取締法の規制下にあったLPガス販売が、 単独の法律を持ったのは昭和四十二年十二月二十八日のこと。 「液化石油ガスの保安の確保及び取引の適正化に関する法律」 である。 以来これまでに何度か改正が行われていたが、 時代の変化に法律の基本理念が合致しなくなり、 平成八年にLPガス法は約三十年ぶりに大幅に改正され、 三月三十一日に公布、 九年の四月に施行となった (三年間の猶予期間)。
 ポイントは▽LPガス販売事業を許可制から登録制に移行▽保安と販売の分離で認定保安機関を導入▽保安高度化と供給合理化を狙い、 民生用バルク供給を盛り込んだ▽認定販売事業者制度 (インセンティブ規制) の創設−−など。  しかし、 LPガス販売事業を許可制から登録制に移行したことや保安と販売を分離したことで末端段階では、 トラブル事例が目立ち始め、 首都圏を中心になかには消費者を巻き込んだ訴訟問題にまで発展するケースが散見されている。 既存事業者同士の局地的な乱売合戦、 消費者に切替えを勧誘するあっせん事業者のほか、 マルチ商法まがいと非難される行為も目につきだした。 こうしたルールなき顧客争奪戦はLPガスのイメージダウンに発展すると危機感を募らせる向きも多かった。
 事態を重視した日本LPガス連合会は平成九年六月十二日に開いた通常総会で、 「二十一世紀への前進と発展を期するため、 二千六百万消費者の付託に応え、 民生用エネルギーの担い手として、 適正かつ公正な取引を徹底するとともに、 より高度な保安サービスの提供を確保するとの決意を新たにし、 ここに宣言する」 という、 異例ともいえるマルチ商法まがいを追放する 青森宣言 を採択した。 日本LPガス団体協議会も九年七月に 「LPガス産業行動憲章」 を採択した。
 日連はさらに十年七月に 「LPガス販売公正取引指針」 を策定した。 この指針は各地で発生しているトラブルに対して、 日連の顧問弁護士を中心にした有識者が検討し、 見解や対応策、 さらには顧客切り替えに関する基本ルールを添付したもの。 資源エネルギー庁LPガス産業室は、 十一年十月二十二日に取引の適正化・料金の透明化に向けた対応 (アクションプラン) を要請。 十二年夏には、 LPガス料金問題検討会の最終報告、 業界自主ルールを作成した。
 総合エネルギー調査会都市熱エネルギー部会報告を受け昨年十一月、 ガス事業法が昭和四十五年以来初めて大改正された。 政府は三年後をメドにエネルギー政策の抜本的見直しを行う方針であることから、 都市ガス、 電力を含め競合エネルギーの関係業界との情報交換も積極的に行い、 日本のエネルギー政策全般について、 勉強会を業界内に設置し、 三年後の抜本的な見直しに当たり検討することとした。
 しかし、 課題克服には多くの問題が山積している。 日連では現在、 正副会長や三専門部会 (保安、 経済、 総務) の部会長で構成する政策会議を設置し、 多くの分野で勝ち残るための戦略を討議している。

20世紀物語−LPガススタンド編
(株式会社石油化学新聞社発行 プロパン・ブタンニュース2000年夏季特大号収録)

新産業・LPガススタンド事業のパイオニア
「環境」追い風に世界も市場大量投入
 
LPガスの輸入開始と石油の輸入自由化によるLPガスの大量供給時代を前に、 新しい需要分野としてLPG車が開発されたのは昭和三十七年の半ばごろ。
 価格の低落、 だぶつくLPガス需給に手を焼いていた初期発展期のLPガス業界が新しい需要開発に手さぐり状態であった時期に、 まるで降って沸いたように登場してきたのがLPG車であった。 LPG車がはじめてお目見えしたのは昭和三十六年十月の全日本自動車ショー。 戦前にガソリン統制の背景から新たな燃料源を求める動きもあって、 一部でいまでいうLPG車利用のきざしはあった。 しかし、 戦局の拡大という非常事態があったし、 技術革新の波はほど遠く、 LPG車の全面普及には至らなかった経緯もある。
 燃費節減、 走行状態良好との結果が業界内外に公表されるやガスタクブーム (ハイタクLPG車) に拍車がかかった。 ちょうど昭和三十七〜三十八年にかけて、 経営合理化にあえいでいたハイタク業界はLPG車の効率に目をつけ、 全国各地に一斉にガスタクブームが飛び火した。 LPG車が急速なブームを呼んだのは、 公害防止上の点で、 LPガス自体の持つクリーンな特性に注目されると同時に、 経済性の点で他の燃料よりはるかに優っていることであった。
 ハイタク業界のLPG車利用の大きなうねりに功績があったのは、 何よりも専用スタンドで普及ネットを敷いたLPガススタンド事業者のパイオニアたちだ。 新産業ともいえるLPガススタンド事業に投資し、 新たな業界を興した点でスタンド事業者の功績は大きい。 当時の創業者の決断は高く評価し賞されるべきものだ。
 LPG車の普及には、 当然のこととして燃料充填基地として専用のLPガススタンドがなければならない。 その第一号が大阪の一角に誕生したのは、 早くも昭和三十七年の七月。 それから、 ほぼ四十年、 わが国のLPG車は約三十万台、 自動車用LPガスの年間需要量百七十万トン、 全国のスタンドネット数約二千事業所、 スタンド業者を納税義務者とする石油ガス税年間三百億円とオートガス産業分野 (自動車用LPガス産業) としての揺るぎない地歩を確立してきた。
 しかし、 自動車用LPガスがこの四十年の間に新産業として確立されたといっても、 その間の発展過程は順風満帆であったわけではなく、 見方によっては苦難の連続の歴史であったとも言える。
 とにかく、 当事者であるLPガススタンド事業者に加えて、 輸入・元売各社、 関連機器業界、 自動車メーカー、 ハイタク事業者などとの連携プレーでLPG車利用拡大の道を大きく切り開いてきた。 もちろん、 このかげには、 LPG車の有効活用にきわめて好意的であった通産省、 運輸省、 科学技術庁など関係行政機関の国策上の適切な誘導支援があったことも忘れてはならない。
 LPGキャブの誕生は、 国家的・社会的評価があった一方では、 保安に対する技術的検討の時間もなく爆発的に普及を開始したことから、 結果として数件の火災爆発事故を起こし、 焼き鳥タクシー との世の指弾を受けたこともあった。 その抜本的対策が交換式容器 (脱着式) の禁止による固定式容器への移行で、 運輸省は昭和三十九年六月一日 (東京オリンピックの年) 以降は交換式容器を禁止とした。 LPガス自動車構造基準も策定、 発効をみた。 そのためにも、 LPガススタンドの早急な建設、 ネットワークづくりも要請された。 組織的な活動として現在の全スタ協の前身である全国LPガススタンド協議会が創設されたのが、 ちょうど昭和三十八年六月。 この組織を母体に、 全国LPガススタンド協会連合会 (三十九年八月)、 社団法人全国LPガススタンド協会 (四十三年六月) に衣替えし、 公益法人として社会的な位置づけも明確にしてきた。
 一方、 LPG車が急速に普及し始めると、 道路整備財源として自動車用LPガスが課税対象として検討された。 スタンド業界とハイタク業界が一体となっての課税反対運動も猛烈に展開され、 一転二転しながら、 石油ガス税法は昭和四十年十二月公布、 翌四十一年二月一日に施行となった。
 両業界がスクラムを組んだ反対運動が功を奏して、 課税率は三段階に分けた暫定軽減措置 (四十一年二月〜同年十二月=キロ当たり五円、 四十二年一月〜四十四年十二月=同十円、 四十五年一月以降=本則税率同十七円五〇銭/リッター当たり九円八〇銭) の適用となった。
 LPG車の普及台数の伸びを見るとき、 いかにわが国の自動車用LPガス産業が急成長したか、 そのすさまじさがよくわかる。
 もっとも、 こうした成長が無限に続くわけではない。 とりわけ、 今日までの自動車用LPガスの歴史や需要実態はハイタクLPG車 (LPGキャブ) を特定ユーザーとしたものであり、 タクシーに認可台数という枠はめがあって、 しかもそのほとんどがLPG車に切り替わっている上に (もっとも、 昨今の傾向として個人タクシー中心にガソリン車へのUターン現象も現実にはある)、 車自体の性能アップでリッター当たりの保持キロの伸びが見られることなどを考え合わせれば、 現行のハイタクユーザー依存型の自動車用LPガス産業の成長は限界水準にもある。
 こうしたLPガススタンド業界だが、 新しい時代に向けての挑戦もすでに始まっている。 これは、 スタンド事業者自らのイメージチェンジであるとともに、 新規ユーザー開拓に代表されるLPG車のすそ野拡大であり、 二人三脚で苦楽と共にしてきたハイタクユーザーの上に、 新たな需要層を積み上げていこうとする新たな挑戦だ。
 ときあたかも、 東京都のディーゼル車NO作戦の発動に代表される大気汚染防止の環境対策の進行もあり、 LPG車普及促進には追い風が吹いている。 国際的にも環境対策に即効性・実用性などの面で効果を発揮するLPG車の評価と市場大量投入の動きが鮮明となってきた。

20世紀物語−プラント編
(株式会社石油化学新聞社発行 プロパン・ブタンニュース2000年夏季特大号収録)

原点は「LPガスプラント基準」作成
自己責任で保安レベルの平均化が課題、来年はJLPA創立40周年

 日本LPガスプラント協会 (JLPA) が設立された昭和三十六年は、 業界の拡大期で、 需要の伸びは上昇カーブを描き、 プラント増加にともなうタンクメーカーの過当競争が憂慮されることになった。 JLPAの設立は、 そうしたメーカー間での過当競争を緩和して、 タンクを良質に維持することが第一。 第二として配管からベーパーライザーまでの技術的な基準確立が中心目的だった。
 技術基準の作成には、 事務局の労力もさることながら、 各メーカーの工夫や勉強といった表面には出ない関係者の地道な努力があった。 同年十月から、 いわゆる 「JLPA基準」 の製作作業が開始され約二年後の三十八年八月に完成、 「LPガスプラント基準」 として発表された。 通産省軽工業局 (当時) から、 各都道府県知事あてで 「LPガスプラントの技術的詳細は、 JLPA基準によって指導するように」 との通牒が出された。 それ以前は、 プラント検査はメーカー任せで、 各県がバラバラな基準で完成検査を行っており、 タンクメーカーとしては設計圧力の設定等、 事業者の仕様によって対応せざるを得ない状況だった。
 その当時のプラント関係の事故として▽山陰線陸橋にローリー衝突でガス漏洩、 発火し国鉄電車火災 (三十六年一月) ▽宮城県の充填所で受け入れホースカップリングが外れガス漏洩、 着火、 爆発 (三十七年十二月) ▽岩手県の充填所で漏洩、 引火 (三十八年一月) ▽大阪市茨木の充填所で漏洩、 引火、 爆発 (三十九年九月) ▽東京でローリー爆発事故 (同年十二月) ▽広島の充填所で引火、 爆発 (四十年二月) ▽群馬県で貯槽開放検査中に引火爆発 (四十年九月) −−などがある。 いわば、 LPガス需要を下支えするための保安確保が急務となっていた時期といえる。
 JLPA基準はその後、 四十年十月に改訂版、 四十二年十月に三改訂版が出された。 昭和三十八年から三十九年にかけて、 タンクの応力腐食割れの研修が行われたのに続いて、 三十九年にはLPガスタンク車実験が行われた。 タンク車メーカーが中心となって進めたもので、 当時の全国プロパンガス協会 (現・日本LPガス連合会) からタンク車、 タンクローリーの基準づくりを要請されたことが発端。 当時タンクメーカーとしての疑問点に、 「地上タンクは裸で設置されているのに、 タンク車だけなぜ保冷材を設けるのか」 ということがあった。 ユーザーサイドからすると、 タンク車の容量を大きくしたい、 容器再検査の際に断熱材を外して取り換えると費用がかさむなどを理由に、 裸タンクの実現が強く望まれていたのだ。 結果として、 四十年六月のJLPA第二次海外調査団による先進諸国のタンク車実態調査によって裸タンク車が実現した。
 タンク車については当時、 アングルバルブを使用していたが、 大阪府茨木での充填所での爆発火災事故、 兵庫県西宮でのローリー転倒着火・爆発事故 (四十年十月) などを教訓に、 四十年秋に 「緊急遮断装置」 の設置が省令で義務付けられた。 JLPAでは四十一年に緊急遮断弁の検定制度を発足し、 精度の高い検査を実施。 四十六年度には球形貯槽耐震実験も行い、 地震の際にノズル、 支柱取付部にどの程度の応力がかかるかの検証もした。
 昭和五十三年、 現在の新バルク供給システム普及につながる 「バルク供給実験」 が高圧ガス保安協会 (KHK) と日団協との共催で行われた。 当時はバルク供給の将来性が極めて不透明な時だったが、 メーカー側からは 「有望であり、 必ずある時期に実施される」 との見方が強く、 KHK、 日団協、 JLPAへの協力体制が確立していった。
 五十年代に入り、 LPガス流通の拠点であり心臓部であるプラントの開放検査件数がピークを迎えた。 五十五年度中に開放検査を受けたのは千四百七十四事業所、 タンク千六百四十七基だった。 五十九年にはプラント基数が一万基の大台を突破、 保安検査の重要性と正確、 確実なチェック機能の発揮があらためて求められた時期でもある。JLPAは六十二年、プラント保安検査の正しい理解を啓蒙するための映像スライドを製作、 関係事業者に周知した他、 平成元年には、JLPA基準の「LPガス球形貯槽基準」 など三基準を改訂、 業界自主基準として発効させた。
 現在、 政府の規制緩和政策推進によって関係法令が改正、 自己責任原則による新たな保安体制整備と、 新制度への早期対応が急務となっている。 特に貯槽の開放検査周期延長問題、 地方分権法施行による地方自治体への保安行政の移行、 プラント検査機関の民間委嘱制度 (指定保安検査機関制度) の発足、 新バルク普及にともなう周辺環境の整備など、 二十一世紀を迎えるにあたって整理すべき事項が山積されている。 これにあわせて今夏、 JLPA基準も二十年振りに全面改訂となった。
 特に、 従来の高圧ガス保安協会 (KHK) 認定による検査事業者制度に加え、 民間企業でも所管の都道府県及び局から指定を受ければプラント検査ができる 「指定保安機関制度」 が導入された。 地方分権法によって、 検査内容は 「自己責任」 の下に各地方行政に任されることになるが、 保安レベルをいかに全国的に平均化するかが今後の大きな課題となる。 JLPAでは 「指定保安検査連絡協議会」 を設立し、 KHK認定事業者と会員以外の指定保安検査事業者との連携による保安レベルの向上を目指している。 また、 今年六月、 民生用バルク普及に向けて、 日本車輌製造と東急車輌製造が取得している民生用バルクローリー特許の無償開放の仲介役も務めた。 業界全体ができるだけスムーズに民生用バルクが普及できるように、 との観点によるものだ。
 来年はJLPA創立四十周年の節目となるが、 JLPAでは現在、 「新しい視点で着実に一歩前進する」 をテーマに、 自主保安の重要性と新技術に適応した体制づくりを目指して、 協会改革、 業界改革に取り組んでいる。

20世紀物語−供給機器編
(株式会社石油化学新聞社発行 プロパン・ブタンニュース2000年夏季特大号収録)

メーカー団体の自主活動で発展
交換期限の延長で合理化実現、今後も一層の保安高度化めざす

 昭和二十七〜二十八年頃から一般家庭でもLPガスが使われるようになり、 国内メーカーが調整器の製造をスタートさせた。 しかし、 まだ技術水準には不安があり、 全国で事故が頻発していた。
 昭和三十年代に入って、 調整器を含めたLPガス機器の標準化を図る機運が高まり、 三十六年にメーカー全国団体・日本LPガス調整器工業会が設立され、 翌三十七年には調整器技術基準がまとまった。 その後、 三十八年に全国プロパンガス協会 (日本LPガス連合会の前身) 検定委員会による初の自主検査がスタート、 同年九月から検査済みの製品が一斉に発売された。
 三十九年には日本ホース金具工業会、 全国LPガスコック工業会も相次いで設立。 四十三年三月一日のLPガス法施行とともに日本LPガス機器検査協会 (LIA) が設立され、 翌四十四年十月、 調整器、 高圧ホースの国検第一号が一斉発売された。 四十五年八月には調整器工業会、 ホース金具工業会、 ガスコック工業会の三団体を統合、 現在の日本LPガス供給機器工業会 (JLIA) の前身である 「日本LPガス機器工業会」 (初代会長=丸茂桂・桂精機製作所社長) が設立された。 その後、 LPガス需要拡大のなか、 ガス栓の自主検査開始 (四十五年八月)、 メーター制法制化改正省令施行 (四十八年二月一日) などの節目とともに、 一向に減少しない事故対策が急務となっていった。
 国民生活にLPガスが浸透していく一方で、 昭和五十年代には神奈川県川崎市の小学校でのLPガス配管ガス漏れ事故 (五十五年)、 静岡県掛川市での 「つま恋」 LPガス事故 (五十八年) など大事故が発生、 その後の保安対策に大きな影響を与えた。
 五十四年四月一日には改正LPガス法が施行。 器具については 1ガス漏れ警報器 2継手金具付低圧ホース 3対震自動ガス遮断器の三品目の省令基準への適合が義務づけられ、 技術水準の確保が求められることになった。 また、 同時期に 「LPガス設備保安総点検事業」 を業界挙げてスタート、 総点検に二年、 改善に一年の延べ三年間 (五十五年十月終了) に及ぶ大事業となった。
 供給機器メーカー団体としてのJLIAの歴史は 「交換期限」 を抜きにしては語れない。 調整器、 高圧ホース、 ガス栓の主要三品目の交換期限 (保険有効期間) は技術の向上とともに段階的に延長化され、 販売事業者にとっては管理体制の合理化につながっている。 販売業界の要望を受け、 メーカーが何度も経年変化調査を経て、 技術革新を積み重ねてきた成果でもある。 また、 昭和五十七年に開催した総会では 1高圧部の事故防止 2供給機器の事故防止 3燃焼機器の事故防止 4販売事業者の意識改革、 の 「四重の安全体制の確立」 を決議、 内外にアピールした。 昭和六十年以降、 まさにこのテーマに沿って▽高圧ガス保安協会 (KHK) が集中監視システム研究着手 (六十年四月) ▽通産省立地公害局長 (当時) の私的諮問機関 「LPガス安全器具普及懇談会」 が報告書発表 (六十一年五月) ▽器具懇報告対応のマイコン製品化 (六十二年九月自主検査開始) 等、 保安高度化への業界活動が活発化した時期でもある。
 六十二年九月から普及開始となったマイコンは一般家庭向けに開発された保安機能搭載メーターで、 当時は 「安全器具の切り札」 とされた。 六十一年十月から官民あげて展開した安全器具普及運動は、 器具懇が提案したマイコンメーター、 警報器、 ヒューズガス栓のいわゆる 安全器具三点セット の普及促進がテーマ。 しかし、 運動スタート時は普及率も芳しくなく、 運動開始一年半経過の六十三年三月当時はわずか二・二%に過ぎなかった。 JLIAが事務局を務める 「LPガス安全システム普及促進連絡協議会」 (安促協=設立時はLPガス安全器具普及連絡協議会) が結成されたのはそんな最中の六十三年四月。 運動を側面支援する目的でガス警報器工業会、 日本ガスメーター工業会、 日本LPガス供給機器工業会の三団体で組織し、 運動の趣旨と安全機器普及PR活動に力を注いだ。
 平成二年五月に発表された 「九十年代のLPガス消費者保安政策の在り方分科会報告」 (九十年代ビジョン) のフォローアップとして設立された 「LPガス最適利用システム研究委員会」 (BS委員会) に安促協も委員として参加。 六年三月には快適生活提案の書 「消費者重視のゆとりと豊かさ」 を発刊、 システム推進委員会 (BS推進委員会) がその後の事業を継承してステップアップマニュアル三部作を作成し、 十年四月に七年間の活動終えて解散した。
 平成六年四月に発売された十年検満・S型メーターを中心に、 集中監視による保安のネット化、 また、 調整器、 高・低圧ホースの高性能供給機器 (十年検満型) の登場で、 メーターの周辺機器は 「セット交換」 が出来る体制もできている。 九年四月一日に約二十年振りにLPガス法が改正・施行され、 認定販売事業者という限定ながら 「保安確保機器」 とその期限管理が省令と告示で規定された。 長年 「期限管理」 と 「定期交換」 の推進を提言してきたJLIAにとっては、 画期的な法体系が現実化したといえる。
 現在、 最大のテーマは、 七年一月に取りまとめられた 「LPガス保安対策の在り方研究会」 中間報告での保安高度化目標、  1二〇〇〇年末までにB級以上の事故撲滅 2二〇〇〇年末までに一般消費者が安心して利用できるLPガスシステムの構築−−の実現を、 残り半年足らずでどこまで近づけられるかにある。 検満切れメーターの残存数は百万個ともいわれている。 また、 通信インフラの激変にともないセキュリティメニューも多様化してきた。 JLIA、 そして安促協は、 来るべき時代を見据えた新しい保安の在り方を今後も模索していく。

20世紀物語−燃焼器具編
 (株式会社石油化学新聞社発行 プロパン・ブタンニュース2000年夏季特大号収録)

より便利、快適な生活を演出
ガス器具−暮らしの中の進化、ニーズに応える技術革新の歴史

 激動の二十世紀、 ガス器具は日本人の生活や歴史とともにどう進化してきたのか。 「GAS MUSEUM がす資料館」 (東京・小平市) に取材して、 その歴史を追った。
 まず、 十九世紀の話を少し。
 日本初のガス事業は、 現在、 横浜の 「馬車道通り」 と呼ばれているところにガス灯の街灯が立てられたのが最初だ。 明治五 (一八七二) 年。 日本最初の 「ガス器具」 はガス灯だった。 その後、 各地に街灯として、 また室内灯として使用されるようになっていった。
 二十世紀に入るころ、 全国でガス会社が設立されるとともに、 ガスの調理器具や湯沸器、 暖房器具が使われ始めた。 ガスは炭や薪に比べて点火・消火が簡単なこと、 炎の調節がしやすいこと、 灰やススの心配がないこと、 燃料貯蔵の必要がないことなど、 利便性の高さが受けたようだ。
 当初のガス器具は、 西洋からの輸入品や、 西洋のガス機器を模倣して国内でつくったものがほとんどだ。 そのため、 非常に高価でお金持ちの屋敷や食堂、 ホテルなどの業務用などがほとんどだった。 例えば、 明治三十五 (一九〇二) 年の大隈重信伯爵邸の台所ではイギリス直輸入のガスレンジが使われていたが、 二百五十円 (現在の換算で約四百万円) ほどもした。
 日本最初のガス器具特許品が誕生したのは明治三十五 (一九〇二) 年。 東京ガスが 「炊飯用ガスかまど」 を発売した。 鉄製の筒の内側に火口があり、 そのなかに炊飯釜を落とし込む、 シンプルな構造のものだった。
 このほか台所ものではガス七輪 (こんろ)、 焼き物器など、 日本人の食生活に合ったガス器具が登場し始めた。
 逆に、 明かりの方は、 大正初期の電気技術革新と大正十二 (一九二三) 年の関東大震災当たりを境に、 電気が主流となっていく。
 大正二 (一九一三) 年の 「風俗画報」 にガス器具をイラストとキャッチコピーで紹介した 「瓦斯十題」 が掲載されている。 これを見ると当時どんなガス器具が使われていたかがわかる。 紹介されているのはガスランプ、 ガスかまど、 風呂内釜、 ガスストーブなど。変わったところでは吸入器、ガスアイロン、ガス機関などもある。
 ガスランプのキャッチコピーは 「ソレ神田 火事だで電気闇となり」、 ガス街灯は 「雷が鳴れば電気は休みなり」。 当時、 供給が不安定だった電気に対し、 ガスの供給安定性をアピールしている。 現代のガス・電気の競合バトルを彷彿とさせる (?) ようだ。
 ガスストーブはこのころ登場した。 それまでの暖房器具はいろりや火鉢など、 当たっている人の体を暖めるだけだった。 それが、 部屋全体を暖める暖房に変わったのは画期的な変化といえる。
 湯沸器は大正時代ころに本格登場した。 大型湯沸器は明治三十五 (一九〇二) 年、 洗面用の小型湯沸器は同三七 (一九〇四) 年にはすでに登場していた。 輸入品を模倣した国産品は大正三 (一九一四) 年に登場。 国産品が広く使われ出したのは昭和五 (一九三〇) 年、 「YOY一二一號湯沸器」 が発売されて以降だという。
 現在の熱交換器のように、 バーナーで管を熱し、 水が管のなかを通っていくうちに熱せられてお湯になるタイプや、 小型のタンクに入れた水を下部のバーナーで温め、 温まって上に上がってきたお湯を利用するタイプなどがあった。
 大正末期から昭和初期は、 西洋風の暮らしが日本にも入ってきた。 コーヒー沸かし器、 食パン焼き器、 卵茹で器など、 さまざまなガス器具が登場。 洋服の着用率が上がったことを背景に、 アイロンの需要も高まり、 ガスアイロンは利便性が好評を得ていたようだ。
 昭和六 (一九三一) 年には 「はやわき釜」 が誕生した。 湯沸器の原理を風呂釜に応用したもの。 薪・炭などの風呂と比べて煙突がいらず、 火熱が強くてすぐに沸く、 ランニングコストが安い、 などの利便性や価格などがニーズに合致し、 普通の家にも風呂が急速に普及するようになった。
 日本で産業用ガス機関が使用されるようになったのは明治時代。 当初はイギリスからガスエンジンのガス機関を輸入して試験を行い、 模倣して国産するようになった。 発電用をはじめとして、 印刷、 機械製造、 金属、 食品、 織物などの工場で使われた。 明治二十七 (一八九四) 年の日清戦争勃発、 同三十七 (一九〇四) 年の日露戦争勃発以降、 日本では繊維、 機械、 製鉄などの工業が急激に発達し、 産業用はかなりニーズがあったと思われる。
 蒸気機関に比べ、 立ち上げに時間がかからず取り扱いが簡便なことが受けた。 また、 ガス会社がガス料金を 「動力用」 に限り一定率の割引をしていたことも普及を広げた。 その当たりは今のGHPに似ているかもしれない。 その後、 さらに使いやすい電気モーターなどの普及により、 昭和初期にはガス機関は消えた。 再びガスエンジンが世の中で使用されるまでには、 戦後、 タクシーやGHPが登場するまで待たねばならない。
 日本は昭和六 (一九三一) 年に 「満州事変」、 同十二 (一九三七) 年に日中戦争、 同十六年 (一九四一) 年に太平洋戦争を起こした。 戦時中は金属や物資が不足したため、 ガス器具に陶器が使われたりした。 陶器でできたガス七輪などが残っている。
 昭和二十 (一九四五) 年、 敗戦。 戦後は復興と高度成長のなかで、 さまざまなガス器具が発売、 使用された。
 画期的だったのは、 昭和三十九 (一九六四) 年に東京ガスとガスターが開発、 発売したバランス式風呂釜。 強制給排気式のため、 換気不足による事故の心配がなくなった。 公団住宅に採用されたこともあり、 爆発的に普及した。
 変わったところでは、 昭和三十〜四十年代に使用されたガス冷蔵庫。 アンモニアの気化熱を利用して冷やすものだ。 当時の電気冷蔵庫は音や振動が大きかったため、 ガス冷蔵庫の静かさが好評だったという。 ただ、 排熱が大きいという難点があったため、 電気式の改良にともないガス式はなくなった。ただ、この技術は現在の吸収式空調等に応用されて生きている。
 その後、 技術革新が進み、 エレクトロニクス技術と相まって、 現在、 ガス器具は調理、 お湯、 空調、 工業などさまざまなところでより便利に、 より快適に、 より安全に使用されている。 二十一世紀にも人々の生活や産業を支えていくだろう。
▽資料協力 「GAS MUSEUM がす資料館」

20世紀物語−GHP編
 (株式会社石油化学新聞社発行 プロパン・ブタンニュース2000年夏季特大号収録)

エネルギー政策機器の地位築く
多様な対応機種で市場拡大、国のバックアップも普及にハズミ

 昭和六十二年九月、 東京ガス、 大阪ガス、 東邦ガスの都市ガス三社が小型ガスヒートポンプエアコンを一斉に発売した。 二馬力クラス (共同開発メーカー=ヤマハ発動機)、 五馬力クラス (同=ヤンマーディーゼル)、 七・五馬力クラス (同=アイシン精機) の三機種で、 ここにEHP (電気ヒートポンプ) に対して競争力を持ったGHPが登場した。 以来十三年間、 GHPは夏場と冬場のガスの W需要 を開拓する戦略商品として、 また、 都市型生活の進展で伸びつづける電力需要の緩和を実現するエネルギー政策機器として、 空調分野における確固たる地位を築いている。
 GHPの開発自体がスタートしたのは発売から十年前の昭和五十三年。 第一次オイルショックから立ち直り、 産業界も活力を取り戻し景気も上向き状態となり、 国民生活ではひと頃の省エネ意識が希薄になりつつあった時期だ。 この年の夏、 記録的な猛暑によって家庭用ルームエアコンの年間販売台数が二百五十万台を突破。 まさに飛ぶように売れた。 夏季の電力需要は急騰し続け、 電力会社の供給余力が底をつくという非常事態を招くこととなった。 東京ガスでは 「家庭用ガス冷房の実現」 を目指して試行錯誤を開始、 当時は 「小型ガス冷房は米国にもなく、 ましてや日本の最高水準の技術を持ってしても実現不可能」 とされていたが、 日本クリーンエンジン研究所 (本社・金沢、 大西繁社長) が開発した 大西エンジン (排気量百九十、 小型二サイクルエンジン) の採用によって試作機が完成した。 当時の通産省住宅産業課は、 住宅エネルギー問題の観点からGHPの開発・研究を重要技術研究開発補助事業に指定した。
 昭和五十六年、 大手都市ガス三社 (東京、 大阪、 東邦) とメーカー十二社で 「小型ガス冷房技術研究組合」 (理事長=柴崎芳三・日本ガス協会副会長) を設立、 重要技術補助事業を受け継ぎ家庭用五機種、 業務用二機種の七タイプの研究開発に取り組んだ。 国の補助を得て、 小型ガス冷房は実現に向けて歩を進めていった。
 昭和六十一年には、 大手都市ガス三社よる試作機のモニターテストは百七十台に達していた。
 LPガス業界がGHP普及に参画することで生産数量の増大が期待でき、 コストパフォーマンス上でメリットが生じるとの都市ガス側の好意的な了解を得て、 この年の十二月、 東京ガスの平野豊策常務取締役 (当時) を世話人に 「GHPコンソーシアム」 が結成された。 コンソーシアムは翌六十二年一月、 LPガス業界のGHP教育事業に力を注ぎ、 機器メーカー別に三日間コースのGHP技術学校を全国四十六カ所で開催、 受講者は延べで九百七十人に上った。
 昭和六十三年、 記念すべきGHP発売初年度の設置台数は、 都市ガス仕様四千台余、 LPガス仕様六千台余の合計一万台を超えた。 コンソーシアムは前年に引き続いてGHP技術教育に注力、 四月から十月にかけて神奈川、 茨城、 千葉、 鹿児島、 島根などで技術学校を開催した。
 平成元年からは、 各メーカーの開発はマルチ化がテーマの一つとなった。 それにともない多様な市場への対応が可能となり、 また、 寒冷地仕様の登場など、 メーカー各社が製品に個性を出してきた時期でもある。
 二年九月末での累計設置台数は都市ガス一万九千二百台、 LPガス三万一千五百九十二台で合計五万台を超えた。
 平成三年八月、 LPガス仕様のGHP設置者に対する国の利子補給融資制度の運用が始まった。 前年に始まった天然ガス仕様のGHP設置者に対する補助制度と同様の措置で、 コンソーシアムは、 エルピーガス振興センターが行うこの融資制度の推進協力者として、 「融資事業資金の一部として年間七百万円を五年間にわたって拠出」 などの役割を決めた。 この融資制度はGHP普及に大きな効果をもたらした。
 四年に入ると、 メーカー各社が相次いで 「ビル用マルチタイプ」 を開発・発売した。 都市ガス業界は、 これを機に設計事務所、 ビルオーナー、 建設会社などを対象にした 「ビル用マルチ全国キャラバン」 の全国展開を計画。 コンソーシアムにも参加を呼びかけ、 全国十会場で二万六千四百二十八人を動員し、 GHPビルマルを建設業界に浸透させることに成功。 従来の燃料ルート中心の販売からサブユーザーを巻き込んだ新たな販売戦略の展開につながった。 またこの年、 通産省資源エネルギー庁が 「家庭用超小型ガス冷房機」 の技術開発をスタート、 七年七月から八年三月までフィールドテストを実施、 「いよいよ家庭用時代の到来」 との予感が高まった。
 都市ガス業界で平成十年度からスタートした既築中小物件を対象にした補助金制度 (天然ガス仕様のGHPと吸収式が対象) を受けて、 LPガス業界でも十一年十月から 「既築中小物件個別分散LPガス冷房導入促進事業」 (窓口=日本LPガス協会) がスタートした。 コンソーシアムはこの制度が都市ガス同様にLPガス業界にも適応されるように、 エルピーガス振興センターや日本LPガス協会を通じて通産省に働きかけ、 施工後一年以上を経過した床面積一万平方メートル以下の既築物件 (家庭用を除く) へのGHP設置に補助金が交付されることになった。
 十一年度のGHP出荷台数は過去最高の四万六千台を記録、 発売からの累計でも四十万台に迫り、 馬力ベースでは三百五十馬力を突破した。 発売当初の業務用中心からハウジング部門での認知も得つつある。 リビングメイト三馬力で家庭用普及を牽引していたヤマハ発動機のGHP部門撤退というバッドニュース はあったものの、 発売からすでに十三年が経過したGHPは、 環境問題を踏まえた超高効率GHPのラインアップや、 リプレース需要を踏まえたメンテ対応の整備など、 ハード、 ソフトの両面で進化を続けている。

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