“気位(きぐらい)が高い”福島県人気質(かたぎ)
福島液化ガス工業社長
清野 弘氏


ウエーブ・風 話題と肖像画/ナリケンがゆく <177 >

 福島液化ガス工業の清野弘社長は、昭和35年に同社設立と同時に入社してLPガスの製造・販売の道を切り開いてきた。そして平成4年、初代社長・西形政次氏の跡を継いで2代目社長に就任して今日に至っている。平成16年秋の褒章ではLPガスの保安をはじめLPガス企業業績の向上、流通の合理化と安定供給の功績で黄綬褒章に輝いた。
 清野さんは福島県伊達郡保原町の人である。気位が高い福島県人(けんじん)気質(かたぎ)の顕著なるものがある。威張っているというのではない。むかしは東京に行くのに蒸気機関車で8時間を要した。今のようにファクスは無くても心の通う会話があった。今は酒を酌み交わそうにも急がし過ぎる。そんなに慌てて歩(ある)っても金儲けになるまいと言う。
 福島市(人口28万人)、伊達市(7万人)、二本松市(6万人)など県北地域で販売シェア業界第1位を築いているが、ここに至るまでに辛らかったことは何かと問えば、ガス価額だけでお客さんを取られたことだと言う。最近は電気との闘いだ。LPガスはお湯まわりと空調を徹底的にやらないと生き残れない。これによって年間500キロから1トン使ってもらえばよいと強調した。
清野さんがプロパンを始めた 前後(あとさき)
 清野さんは昭和32年に福島県立福島農蚕高等学校を卒業して福島ガスに入社した。阿武隈川の東岸に阿武隈山地、西岸には吾妻(あづま)の山々が迫っている信達平野(信夫(しのぶ)と伊達(だて))は、古くから「伊達の絹」「信夫毛地摺(しのぶもぐずり)」と呼ばれ、養蚕業が盛んだった。保原(ほばら)・梁川(やながわ)・掛田(かけた)(霊山町(りょうぜんまち))・桑折・藤田(国見町)に開かれた定期市は、農村の養蚕業など商品生産と深いかかわりをもっていた。早生桑が登場して蛆の被害を免れるため早期の蚕の掃立(はきた)てを可能にしたのもこの地方であった。清野さんは養蚕の先生を志して名門の農蚕高校を卒業したが、桑畑1反歩を抜くと2,000円の奨励金がもらえる時代に遭遇した。かくて桑畑は果樹園に替っていった。もはや養蚕ではないとガス会社に入ったのである。信達養蚕業は早くから気温の変化に注意する「清涼育」、蚕の飼育に炭火を用いる「温暖育」、蚕室に寒暖計を備える等の技術改良で声価をあげた。その意味でガス会社とあながち無縁ではない。
自動車の免許で重労働を免れる
 福島ガスに入って最初の仕事はパイプの埋設工事である。道路が舗装されたのは昭和45年以降で、道路を掘るには専ら鶴嘴(つるはし)とスコップだった。パイプの螺子錐(ねじきり)は手まわしの旋盤である。自動車の運転免許を持っていたためにこれらの重労働から免れることができた。当時の若者で運転免許を持っている者は少なかった。
 清野さんは、現在オートバイ「ハーレーダビットソン」1500ccを所有している。車両総重量440キログラムの愛車を駆ってドライブする勇姿を想像するだにほほ笑ましい。若いときからハーレーを欲しかったが、1ドル360円のレートだと1,000万円もして買えなかった。今でもこの車種で280万~320万円といったところだ。しかし、直ぐ買い手がつくから結局安いものにつく。50歳を過ぎてわが道楽は、ハーレー・オーナーズ・グループ(H・O・G)のメンバーであることだ。一升びんを何本かをぶら下げてドライブしてハーレーのメンバーと酌み交わす酒の味はまた格別だと言う。
青葉製作所でメーター製作
 昭和35年に福島液化ガス工業がスタートするや福島ガスから移り、ボンベ1本売りから始めたのであるが、都市ガス育ちだから当時あったハーモニカ長屋に50キロボンベを立てて配管供給をした。そうするとメーターが必要である。仙台市の青葉製作所に作ってもらった。今、青葉製作所がどうなっているか分からないが、思い出話である。仙台市ガス局に聞いてみたら分かるかも知れない。
保安なくして企業なし
 先代社長の西形政次氏は、福島ガスの現社長西形健吉氏の父上で福島ガス、福島液化ガス、日新配管、建材の西形商店、東北生コン、日産サニー販売や運輸会社等を経営した。東北6県の都市ガス協会長でもあった。後に東北電力と合併した福島電灯会社の創始者でもある。
 先代社長は事故を起こしてはオシマイだと、「保安なくして企業なし」と繰り返し強調した。西形社長の教えにしたがってガリ版刷りで保安のチラシを作って消費家庭に配ったものだ。清野さんは多年に亘り県LPガス教育事務所講師として県内販売事業者の従業員教育、消費者の保安啓蒙を行い、保安センターの設立、育成に精魂を傾けた。局長賞や大臣表彰は1度うけたら2度はないものだが、清野さんは保安功労の大臣賞を昭和47年、平成元年、平成12年と3度も受賞、同じく保安功労の局長賞を昭和61年と平成6年に受賞した。これを以っても保安活動に傾けた清野さんの仕事ぶりを窺い知ることができる。
オートガスでGHP
 福島液化ガス工業の本社は、平成9年に旧本社があった福島市曾根田町から同市矢剣町の福島ガスの南隣に移転した。新社屋は建築面積3,300平方㍍2階建て、グループ会社5社が入居した。液化ガス工業は新社屋にオートガススタンドを併設し、15㌧地下タンク、ディスペンサーはダブル2基である。特徴的なのは、オートガス(P―20、B―80)で20馬力9台のGHPを稼働させ全館を空調している。清野さんはオートガスでGHPを運転しているのはわが社が初めてだろうと言う。
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 (清野さんの事績を語るに充填所や容器検査施設の共同化は欠かせないが、これらに就いては多く発表されているので本稿では重複を避けた)。 

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