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(2003/9/8プロパン・ブタンニュース)

ハマイ社長
浜井三郎氏
守り続ける“もの作り”の伝統

 ハマイの浜井三郎社長は三代目の社長である。八年前の平成七年三月に長兄の良彦社長からバトンタッチを受けた。兄・良彦さんは、昭和四十七年に創業者社長である浜井栄社長の跡を継いだ。昭和二年二月が創立だから創業者の初代社長は四十五年間社長に在籍した。二代目社長は二十三年間の在籍である。
 三代目の三郎社長は、親父や兄貴の背中を見ながら育ったと言う。そして社長を引き継いで今年で八年になるが、会社が赤字を出さずに黒字続きであることは、親父さま様、兄貴さま様だと言う。
 いくら気が利いたことを言っても会社を赤字にしては罪悪である。七十六年前の創業時から戦後プロパンの登場までは溶断器、火口、調整器の機械加工をして主として日本酸素に納入した。昭和二十五年にわが国にプロパンが登場する前夜に帝国石油からプロパン・バルブの試作千個を受注した。これは誠に運がよく、プロパン・バルブ製造のきっかけとなった。それ以来ネックバルブを作り続けて昨年末には、その製作個数一億九千万個を製作した。二年後には二億個に達するだろう。膨大な数量である。
 しかしながら二十一世紀になって世界のエネルギー動向は、炭化水素から水素へとシフトする兆候をみせている。現在はまだ水素社会の序章どころか最初の一頁の段階だが、世界の流れは化石燃料からこの方向に動いている。足許のプロパン・バルブ二億個のシェアをゆるがせにするものではないが、わが社の得意技(とくいわざ)の高圧ガス・バルブで高圧水素供給に寄与したい、と三代目社長は意欲満々である。
新製品ボールバルブの誕生
 ハマイは昨年二月、創立七十五周年記念祝賀会を行った。資本金=三億九千五百三十万円、売上高=七十億円超、営業品目はLPガス弁類(四五%)・ボール弁類(三〇%)・高圧ガス弁類(二五%)である。ハマイ七十五年の歴史の中には幾多の試練、紆余曲折があっただろう。
 それを乗り越えられたのは、親父が常々言った「ソレを作らせたらアスコだ」と言われるようになれと、言わばメーカーの使命感が受け継がれて来たからだと思う。
 三郎社長は語をついで二代目・良彦社長の業績を称えた。良彦前社長は、@大多喜工場の建設、A新工場では既存製品の増産ではなく新製品の生産を主眼とする、B昭和五十二年の創業五十周年には年間売上高五十億円を掲げて経営規模の拡大を図った。かくてボールバルブの誕生を見たのである。
高圧ガスバルブをやっていたから
 良彦前社長は創業者・栄氏の長男で自ら選んだ道ではなく、与えられた運命が経営者の道を歩ませたのであるが、外部資本の導入、燃焼器具からの撤退等、経営の近代化に英断を奮った。
 溶断器、火口、調整器の機械加工から始めたことは前に述べたが、酸素、窒素、アセチレンなど高圧ガスのバルブを日本酸素のバルブ工場みたいに製作したことは幸せだった。これをやっていたからこそ来るべき環境の世紀に水素インフラに対応できるのである。国産の燃料電池自動車の第一号にハマイの水素バルブが採用されたことを誇りに思う。水素供給ステーションが社会インフラとして構築される日が来たらハマイの水素バルブは、LPガスのネックバルブの後継ぎだと夢見ているのですよ、と三代目は屈託なく笑う。そして話を教育論に移した。
 日本総研ビジネスコンサルタントで二年やった。それから京セラのアメーバ経営を四年ほどやった。始めの三年間は京セラから来てもらった。その後は当社流の手法で二年、いずれも毎月土曜に全幹部職員で研修をした。研修期間を通算したら八年である。三郎社長は社長就任と同時に社員教育を始めたことになる。社員の意識改革だと言う。一人ひとりが数字を意識する。収益を意識する。経営を意識する。現場の末端までのマインドを変える。現在いる社員が勉強して情勢の変化に対応しなければ、誰が助けてくれるか。教育しかないと言う。
ミッキー家の人びと
 昭和三十八年は忘れ難い年である。この年に大学を出て米国ロサンゼルスに行った。親父は海外を見てこいとアメリカにほうり出したのである。ロスに従兄がいて言葉、文化を知るのに米人の家庭に入らねばと、米人の医師の家に住み込んで学校に通った。ご夫婦と三男一女の家族である。ミッキー、サブロウと呼びあって多くを学んで四年を過ごした。
 帰国してからは営業一筋にみっちり鍛えられた。かの地でお世話になったドクターがオーネスト(正直)が大切と口癖のように言ったのを思い出す。それは親父の座右銘「根性・誠実・励行」に相通じると思う。

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