(2002/05/27 プロパン・ブタンニュース)
黄綬褒章に輝いた 境 寛氏
高山はLPG情報の発信基地
 飛騨高山市にある平和プロパン瓦斯の堺寛(さかい・ひろし)さん(78歳)を訪ねた。堺さんはこのほど黄綬褒章を受章された。そのお祝いがてら本欄に登場ねがうべく伺ったのである。お話しを聞けばきくほどわが国のLPG発展史をひもとく思いであった。堺さんの事跡にはLPGの事業形態、保安問題への対応、利用技術の飽くなき追究、どれをとっても先駆的役割を演じ続けて多くの成果をあげている。高山は伝統文化と飛騨の匠(たくみ)の里の印象が強かったが、どうしてLPG文化の情報発信地でもある。
 三つのLPG会社
 堺さんが関与した三つのLPG会社がある。その三つ共がそれぞれ生き生きと新たな発展を遂げている。第一の会社は平和プロパンである。昭和30年の夏、高山市の二木酒造の社長・二木直郎氏ほか市内の有志によるプロパン販売会社設立が目論まれたとき堺さんは専門知識を請われて同社(平和プロパン)に入社、翌31年には専務に就任した。
 第二の会社はヒダエルピーヂーグループである。同社は昭和44年に市内のカネ吉商店、平和プロパン、山善商店、高山米穀の四社がLPG流通の合理化とコストの削減を図るために設立したもので、10トンブタン、20トンプロパン貯槽の充填所を持ち、オートスタンドを併設した。堺さんはその中心的な存在で専務に就任した。
 第三番目の会社は高山エルピーガス販売である。この会社はLPGの集団供給専門の会社で、昭和48年に高山市に下水道事業が計画されるやこれに合せてLPG販売業者によるミニ都市ガス会社を計画したもので、市内LPG業者の出資による簡易ガスや小規模導管供給によるLPG供給の会社である。
 参加事業者に推されて堺さんは代表取締役となった。同社は1.9トンのバルクローリーを所有して、消費先の代表的なものとしては本町二丁目、同三丁目商店街の集団供給、養護施設の古川聚落苑、高山民俗文化センター等に9.8トンの地下タンクをおいてLPG供給を行っている。いずれも時代の流れを的確に捉えた先見性のある経営形態である。
 用途開発の歴史そのもの
 堺さんのLPG利用技術開発の話には草創期にその名をとどめた懐かしい人々が登場する。調整器メーカーでは日新機械の佐藤五郎衛門さん、富士産業の佐藤英一さん、伊藤工機の伊藤誠冶さん、誠治さんのあとに伊藤工機の社長になった尾畑太郎さんも技術に明るくよき相談相手だった。
 また、本町二、三丁目の集団供給のプラントにはアメリカン・シンガーの高低圧でカットする自動切り替え調整器を採用するなど先駆者のみが知る苦闘と、その結果としての成功の喜びを味わった。
 調整器ばかりではない。燃焼機ではリンナイの先々代社長の林兼吉さんは高山によく来られてよく教えてくれた。
 燃焼で苦労した話では明宝ハム、この会社は郡上八幡の近くにある明宝村にあるハム製造工場だが、そこのロバートショウの低温殺菌消毒槽の温度を摂氏80度に設定するのに苦労した。パロマのパルス燃焼に辿りつくまでにいろいろ試行錯誤があった。カットしても種火が残るので加熱されて成功しなかった。パルス燃焼によるこのシステムは当地産の赤蕪(あかかぶ)の漬物の製造をはじめ京都の漬物屋さんにも納入している。ただし、自分のところのガスは売れてはいないと、堺さんは笑う。
 吸収式からGHPへ
 堺さんは昭和30年代には早くも空調工事を手がけた。それは高山市のお寺にオイルファーネスでダクトでやった。三洋電機の装置だった。そのときお寺さんに現金がなく、中電の株券でいただいた。その後、飛騨体育館の換気装置とスチーム暖房を手がけ、三洋電機の吸収式の冷暖房を数多く手がけた。
 こんな経験があったのでGHPが発売されるや直ちにGHPに移行できた。かくてGHP設置先で大きいものでは平成5年に行ったホテル四季のGHP設置、そして今年4月のホテル古都の吸収式をGHP80馬力に転換がある。この工事は給排水、衛生、給湯、厨房、空調等の機械設備全部にわたるものだった。
 業界発展の礎
 昭和30年ごろは高圧ガスの知識も乏しく、土蔵の中で10キロ容器に流し込み充填をする有様だった。業界発展のためには技術知識が必要なことを痛感した堺さんは、昭和33年に県下の充填所の作業主任者に呼びかけて協会に10人でなる技術委員会を組織して高圧ガスの知識、技術の研究指導に当たった。当時育成した技術者が今日、県の中心的指導者になっている。大きな功績というべきである。黄綬褒章は遅きに失したの感を抱いた。

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